2013年4月1日月曜日

1. ミッドタウンからアッパーウエストサイドへ

 寒いのは大嫌い。こんな風が強くて冷たい夜は、何も用事がないなら外になんて出たくない。
でも今日は用事どころではない、大切な大切な、とても特別なイベントがある。
というか、あたしはそのために東京からニューヨークにやってきたのだ。

日が暮れかけてきたミッドタウンを歩くあたしの胸は弾んでいる。大好きなひとたちにもうすぐ会える――実際に対面するわけではないので「会える」という言い方は正確ではないけれど、でも気持ちとしては「会いに行く」、それは間違いない――、その喜び、高揚感に全身が包まれている。
寒さなんて、こういうときは感じなくなるものなんだな。
そのことに不意に気がついて、あたしは自分のことがちょっと頼もしく思えてくる。初めてのニューヨークだってこうしてひとりで、とくに迷うこともなく歩けているしね。

地下鉄に乗る。乗り込むまではなんとなく、少しだけ緊張する。でも乗ってしまえば何のことはない。それはニューヨークに来てもう5、6回は乗っているのでわかっている。
しかし電車が動き始めたとたんに同じ車両の中でわめき始めた男性がいて、あたしはまた緊張する。誰がわめいているんだろう? と車両の中を見回すと、身長が190㎝くらいはありそうな、大きくてがっしりした体格に黒い革ジャンをまとった黒人男性が何かを訴えるように大声を張り上げている。
何を言っているのかはよく聞き取れない。でも何度もくり返される「ハングリー」という単語だけはわかる。お腹がすいている……の?
彼がどんなにわめこうとも、この車両の中にいる人たちは皆、何も聞こえないかのように平然としている。誰も決して彼と目を合わせようとはしない。あたしも目を合わせるのは怖いと思う。英語で怒鳴りつけられても、何もリアクションできそうにないし。ただ、彼の言葉を拾い集めると、お腹がすいているから何か食べるものを分けてくれ、とあたしの頭の中ではやはり翻訳される。でも食べ物は今は持っていない。かといって、持っていたとしたらあたしは彼にそれを渡すことができるのだろうか? それは何かものすごく勇気の要ることのように思える。
誰も何も反応しないことに彼は苛立った様子を見せ、その声は荒々しさを増していく。するとひとりの男性が、彼に近づいていった。そのビジネススーツ姿の男性もまた黒人だが、彼とは対象的に小柄だ。男性は彼の前に立ち、自分の持っている紙袋を無言で差し出す。その紙袋にプリントされているロゴはどこかで見かけたことがある……マフィン屋さんだったっけ?
彼もまた、無言でそれを受け取る。そしてそれきり黙りこみ、次の駅で降りていく。
ほっとする。ほっとしている自分に気づく。うっすらとしたもやのようなものが、あたしの心を覆い始める。その「もや」の正体が何なのか突き止める前に、電車は目的地へ着く。72丁目駅。あたしは今さっき車内で起きたことなどその瞬間に忘れてしまう。もう「会いに行く」ことしか頭にない。

だってそう、あたしはこのためにニューヨークに来たのだから。

【次回へつづく】



※これはWitchenkare vol.4に収録されている『8番目の男―朝の部―』の続編です。
今日から連載していきますので、どうぞよろしくお願い致します。
やまきひろみ